目と耳と音楽

「さとおと太鼓研究会といく淡路人形浄瑠璃と神楽祭」に同行してきた。

私はもともと、作品作りのために
1人で各地の工房や祭りなどを訪ねている。


ある時から仕事唄を専門に調べているメンバーたちにも
一部参加してもらい始めた。

それは、昔の仕事は1人ではなく、
多くの人が関わって行われていたので、
私1人では限界があった、という制作上の理由があったのだが、

今年から、その輪をもっと拡げて、
研究会だけでなく、稽古場全体とか、
一般公開にまで輪を拡げる試みを始めた。

私たちにとって、この下調べは、作品を創る上での
とても大事な資料であり命であり、普通は公開しない。

ただ、私は、これらを同時進行で伝えていかないと、
土地にひっそりと息づく郷土芸能などに関しては、
いつなくなるか分からないものも多いと危機感を感じたことが大きい。

私は実験も沢山するけれど、
あらゆる辻褄が完璧に合わないと動けない人間で、
何でもものすごく時間がかかる。

だから、私が生きているうちに出来ないかもしれないことを、
一緒に行った子どもが実現してくれるかもしれないのだ。

一度なくなると、ほとんどのものは二度と蘇ることはない。
復活させて、カタチになるのは100年後と覚悟しておいたほうが良い。

また、長く続いている芸能も、良い時と、そうではない時がある。
同じ演者でも良い時期と、そうではない時期がある。

だから、私は同じ場所に何回も何回も足を運んでいる。

5年ねばって5年目に分かることがあったりする。

 


さて、春におこなった「播州音頭体験会」(上の写真)に続いての第2弾は、
淡路人形浄瑠璃と淡路島のいざなぎ神宮で行われている神楽祭を
皆で見に行くという
とてもオーソドックスな選択だけど、
参加者の皆さんの中では初めての方も多く、
子どもたちもいて、どう捉えられるかなと楽しみにして参加した。


私と出会う前は日本の音どころか、
音楽や舞踊など見た事も興味もなかった若者たちが
スケジュールを立ててくれて、そこが、また面白い。

ちょうど、制作している作品の中で声を使うシーンが多く、
いま、稽古場では地域の音頭だの詩吟だの、
いろいろな声が溢れている。
そのなかで、ぜひ義太夫の声を聴いておきたかったというのもあるので、
関わっているメンバーはとりわけ熱心だ。

時間の関係上、少しだけしか滞在できなかったが、
私は、子どもたちがどんなシーンで身を乗り出すか、
みんながどんな質問をするか、観察する。


私がこういうイベントに参加するのは、
舞台と同時に観客を見させていただく絶好の機会でもある。
舞台人が意図するものが、どう観客に伝わっているのか。
これは、ものすごく興味深いものだ。


さて、神楽祭は、淡路市で毎年行われて恒例となった祭り。
今年10回目をむかえる。

私は何度か訪れているのだけれど、
以前に訪れた時にも衝撃を受けた一つの神楽がある。

それは、最低限の音の繰り返しを延々と行う神楽。
そこには一切、奇をてらった音がなく、
秋の虫の声などの自然音と同調するのだ。

自然音と同調する音を出すというのは、
打楽器である和太鼓にとっては
ものすごく難しいことだ。

例えば雅楽のなかの太鼓は、自然音というよりも
宇宙のリズムを打ち出す「時を司る」ようなリズムを持っている、と
私には感じられる。

だが、それとも異なり、
もう少し人間に近い現実と夢との架け橋になるような音。

案の定、同行したメンバーはうたた寝をしている。
寝てしまうのは、正しい身体の反応だと私は思う。
そのくらい、リラックスする音なのだ。

もともと
神楽とは舞台で人に見せるものではない、
自分たちと神との間で行うものだからだ、と、
改めて気付かされる。

こうやって、素直で自然な人の反応は、
いろいろなことを気付かせてくれる。
これもまた、このような催しあってのことだ。

そのなかで、ひとつ、
私自身と他の人たちのものの見方を比べたとき、
私は目と耳と両方でものごとを捉えているのに対して、
いまは、多くの人が目のほうに偏っているのだと
気付いた。

私は小さい頃から
メディアから隔離されていたので、
自然音と舞台の生音だけ聴いて育った。

その後、社会に出てからは、
都会のある一定の音を聴き続けると体調が悪くなったり、
和太鼓でも、打つ人と環境とリズムによっては聴けなかったり、
音楽の中でも、どんな人が歌っているかによっては、
聴くことができない音楽がいっぱいあった。

他には土がないと具合が悪くなる、
緑が一定量ないと精神的にきつくなる、
鳥が凶暴な声だと寝込んでしまうという、ありさま。

今更ながら、
同じものを見聞きしても、
その捉え方は人によって異なるのだと知り、
じゃあ、自分が出せる音はどんなものなのか、と考え込んだ。

ただ、いまは、私の聴いた自然音に近い
この神楽の背景が知りたい。
この神楽を生んだ土地に住んで聴いてみれば、
なにか謎が解けるかもしれないと思う。


日本と一口に言っても、気候風土によって、
植物も動物も異なる。

だから、楽器の素材は、土地によって異なるのが当たり前だし、
山には山の仕事、海には海の仕事があって、
その地独自の仕事のリズムが、その地の音楽や芸能のリズムとなる。

音楽や舞踊などの芸能は、
すべて、生活と自然と結びついていて、
それを見れば、現代の人間の姿が分かる。

例えば、いま電子音楽が多く、
私も昨年はエレクトロの世界にどっぷり浸かっていたが、
それはなぜか?と考えた時、
世の中は、いまや電子音で構成されていると言っても過言ではないし、
工場は機械化されているからだと思う。

人間はオウムのように周囲の音を真似するように出来ている、と
私は思っている。
機械的に繰り返される工場の音は
人間の身体のリズムを機械的に変化させる。

機械のスピードを速めれば、
人間のスピードも速くなる。

 

また、しばらく、
カエルとか犬とか、人間、コウモリ、イルカなど
様々な動物が聴く事ができる音の範囲、
出せる音の範囲について調べていた。

私はこの分野の専門ではないけれど、
みずからの生命の危険を知らせる音について、
聴く事ができるよう聴覚というものが存在するのだと
いうことは感じられた。

今は本来の役目とは違ったところで
視覚も聴覚も使われている。

音楽とはいったい、
なんのために存在するのだろうか。

↓音は振動であることと人間に必要な音について
森の音と伝統芸能
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